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生涯 本項で、年月日は明治5年12月2日までは旧暦(太陰太陽暦)である天保暦、明治6年1月1日以後は新暦(太陽暦)であるグレゴリオ暦を用い、和暦を先に、その後ろの( )内にグレゴリオ暦を書く。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職[2]。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した[3]。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し[4]、帰国した大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野[5][6]、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動[7]から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位[8]。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる[9]。 幼少・青年時代 生誕地付近(鹿児島市加治屋町) 文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)の第1子として生まれる。西郷氏の家格は御小姓与であり、下から2番目の身分である下級藩士であった。本姓は藤原姓(系譜参照)を称するが明確ではない。先祖は肥後国の菊池氏の庶家とされ、その家臣であったと伝わる。江戸時代の元禄年間に島津氏が支配する薩摩藩士になる。 天保10年(1839年)、郷中(ごじゅう)仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人とが喧嘩しそうになり喧嘩の仲裁に入るが、上組の郷中が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。西郷は三日間高熱に浮かされたものの一命は取り留めるが、刀を握れなくなったため武術を諦め、学問で身を立てようと志した。刀が握れないなりに武術の部分に関しては相撲を習った[10]。 天保12年(1841年)、元服し吉之介隆永と名乗る。この頃に下加治屋町(したかじやまち)郷中の二才組(にせこ)に昇進した。 郡方書役時代 弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与(おこしょうあずかり 一番組小与八番)に編入された。弘化4年(1847年)、郷中の二才頭となった。嘉永3年(1850年)、高崎崩れ(お由羅騒動)で赤山靭負(ゆきえ)[11]が切腹し、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。 伊藤茂右衛門に陽明学、福昌寺(島津家の菩提寺)の無参和尚に禅を学ぶ。この年、赤山らの遺志を継ぐために、近思録崩れの秩父季保愛読の『近思録』を輪読する会を大久保正助(利通)、税所喜三左衛門(篤)、吉井幸輔(友実)、伊地知竜右衛門(正治)、有村俊斎(海江田信義)らとつくった[注釈 3]。 斉彬時代 嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年(1852年)、父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀[注釈 4]と結婚したが、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年(1853年)2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、ペリーが浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。 安政元年(1854年)、上書が認められると斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓として御供するよう任ぜられ、江戸に赴いた。4月、「御庭方役」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・藤田東湖にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。 安政2年(1855年)、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年(1856年)5月、武田耕雲斎と会う。7月、斉彬の密書を水戸藩の徳川斉昭に持って行く。12月、第13代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り[12]、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので[13]、西郷はその手足となって活動した。 安政4年(1857年)4月、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物・津田山三郎と会い、国事を話し合った。5月、帰藩。次弟・吉二郎が御勘定所書役、三弟・信吾が表茶坊主に任ぜられた。10月、徒目付・鳥預の兼務を命ぜられた[注釈 5]。11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった[要出典]。12月、江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主・松平慶永(春嶽)に持って行き、この月内、橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。翌安政5年(1858年)1-2月、橋本左内、梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には篤姫から近衛忠煕への書簡[要出典]を携えて京都に赴き、僧・月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。 5月、彦根藩主・井伊直弼が大老となった。直弼は、6月に日米修好通商条約に調印し、次いで紀州藩主・徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定した。7月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始[要出典])。この間、西郷は6月に鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。7月8日、斉彬は鹿児島城下天保山で薩軍の大軍事調練[注釈 6]を実施したが、7月16日、急逝した。7月19日、斉彬の弟の茂久が家督相続し、父の島津久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。
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